大屋雄裕『自由とは何か』(筑摩書房)

大屋雄裕『自由とは何か』(筑摩書房=ちくま新書)という本を読み終えた。本年9月10日の刊である。著者の大屋氏は1974年生まれ、名古屋大学准教授で専攻は法哲学とのこと。ぼくよりも10歳以上も若い。気鋭の学者のようだ。

本書は「規則と自由」「監視と自由」「責任と自由」の3章に分かれている。
第1章「規則と自由」では、1人1人の個人の自由を制約しているものは何かという問いが提出される。典型的なものは国家である。ここから国家による個人の自由の制限を最小限にしよう、国家の役割を最小限にしようというリバタリアニズム(自由至上主義)の考え方が紹介される。しかし国家の役割を最小限にしようとしても、社会には事実上、共同体による自由の制約が存在している。中世ヨーロッパにおけるギルドや日本の地縁共同体・血縁共同体がその典型例である。このような状態の下で国家権力を最小限にしようとすると、かえって共同体による個人の自由の制約が強まるだけであろう。国家の役割を最小限にすればそれだけ個人は自由になれるという単純な問題ではないのである。

しかし本書の白眉は第2章「監視と自由」、第3章「責任と自由」であろう。
第2章では、現代社会において事実上個人が監視を受けている事実が示される。新宿・歌舞伎町の監視カメラや、個々の消費者の購入履歴を記録するコンビニのPOSレジがその例である。現代は「監視社会」なのだ。
ここで著者は個人の行動を規制する手段には、法・市場・社会規範・アーキテクチャの4つがあるという。アーキテクチャによる支配とは、個人が行動する空間のあり方それ自体に操作を加えて個人の行動をコントロールすることをいう。たとえば新宿駅西口の地下通路に出っ張りを設けてホームレスの寝泊りを困難にするのがその例である。このアーキテクチャの権力という概念はぼくにとって新鮮だった。
だが、このような監視はむしろ個人にとってむしろ親切なのではないだろうか。監視カメラのおかげで犯罪捜査が容易になるなどは典型例である。ここからまた議論が展開されていく。

第3章「責任と自由」は刑法の責任能力(刑法では責任能力のない者に刑罰は科されない)をめぐる話から出発する。平成7年の刑法改正で、それまで存在していた「いん唖者」(聴覚機能・言語機能を先天的に有しない者)の刑罰減軽規定が削除された。これはそのような障害をもつ方にとっては不利な法改正である。だが改正前の刑法は障害者の犯罪責任を問わないことによって、障害者を一般人から差別していたのだ。このように個人が自由な選択をなすことができるためには、その行為に伴う責任を負うことが前提となる、という議論が展開される。

本書ではこのように、現代社会の状況を踏まえつつ、「自由」とはどういうことを意味するのか、さらに「自由」であることがそもそも各人にとって幸福なのかという問題が提示される。スリリングな問題提起の書だといえると思う。やや議論が荒い感もあるが、面白く読み終えることができた。

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