ジュリーニのモーツァルト「レクイエム」

今日8月15日は戦後63回目の終戦の日です。第2次世界大戦の犠牲となられた何百万人の方々の御冥福をお祈り申し上げます。
また戦争の直接の犠牲になった方だけでなく、戦争によって親・兄弟などの肉親を失った方々の苦しみは今も続いています。そういったことを思う時、二度と戦争を起こさないという平和への誓いを新たにせざるをえません。

今日が終戦の日だったので、モーツァルトの「レクイエム」を聴きました。演奏は、カルロ・マリア・ジュリーニ指揮フィルハーモニア管弦楽団、同合唱団、独奏はリン・ドーソン(ソプラノ)、ヤルト・ヴァン・ネス(アルト)、キース・ルイス(テノール)、サイモン・エステス(バス)です。1989年4月19日から21日にかけて、ソニークラシカルへの録音です。ジュリーニはモーツァルトの「レクイエム」を70年代にも録音しており(EMI)、今日聴いたのは2回目の録音です。

モーツァルトのレクイエムは、モーツァルト最後の作品であり、まさに唯一無二の作品です。しかし、仮にモーツァルトの絶筆という事情がなく、たとえば別の作曲家の作品だとしても、唯一無二の作品であり、伊達に疎かに聴くような作品ではないと思います。ぼくはそういう考えから、この曲はめったに聴きません。数年に1度くらいです。そのせいで録音も、ベーム盤と今日聴いたジュリーニの再録音という、ぼくが昔から敬愛している2大巨匠の録音しか持っていないのです。

この曲は、死者を悼むにふさわしい荘厳さと敬虔さが全体を覆っています。しかしそれだけに止まらず、何か世界の深遠を垣間見させてくれるような凄味が感じられます。
そして死者を悼み慟哭するダイナミックの感情と宗教的な静謐さが共存しています。それも曲の中で共存しているというだけでなく、とりわけ第3曲「続誦(セクエンツィア)」などでは静と動が同時進行的に共存しているように感じられるのです。聴いている者の居ずまいを正さずにはおかない迫力と敬虔さがまた、二つながら感じられるのです。

ジュリーニの演奏はいつも通りのゆっくりテンポで、荘重でスケールの大きいものです。それだけでなく、歌心にあふれ、常に音楽の自然な流れが損なわれることはありません。ジュリーニならではの至芸、名演奏だと思います。

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この記事へのコメント

2008年08月22日 08:09
アルトゥールさま お早うございます。

最近、コメントができず、申し訳ありません。

この前の戦争は、自国民、他国民を虐殺した最悪の戦争だったと思います。自国の兵士を餓死、病死に追いやった政府、軍部、それに一般大衆もですが~;
スイスの歴史家である、ブルクハルトは、戦争という悪にもそれなりの役割がある、と述べています。確かにそういう面もあるかと思います。もちろん、ブルクハルトは戦争を正当化しようとしているのではなく、あの戦争が起こらなくても、もっと悲惨な戦争が起こっていたかもしれない、と考えるようです。人間社会の進歩などを信じていないようです、この点では共感できる部分もあります。
もう60年以上経ち、戦争を直接知っておられる方々がどんどんと高齢化しています。この時期に、しっかりとした証言を取っておくべきだと考えています~。

m(`w´)彡
2008年08月22日 18:46
rudolf2006さま
コメントを頂き有難うございます。

私は近年、歴史の本は読まないので(若い頃が好きだったのです
が…。余談ですが、E・H・カー『歴史と何か』(岩波新書)を
学生時代に読み、感動したのを覚えています)、ブルクハルトと
いう歴史家の本も読んだことはありません。
しかし歴史から学ばずしてどこから学ぼうというのでしょうか。
歴史の真実から目をそむけ、過去の正当化を図るなど欺瞞・偽善
です。ワイツゼッカー元独大統領の言葉にありましたが、過去に
対して盲目な者は、未来に対しても盲目になると思います。

rudolf2006さまの仰るとおり、戦争を直接体験された方のお話を
きちんとした記録に残しておくのは大事な作業だと思います。

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