亀山郁夫訳、ドストエフスキー『罪と罰1』(光文社古典新訳文庫)

この3連休に、亀山郁夫氏の新訳が出たドストエフスキー『罪と罰1』(光文社古典新訳文庫)を読み終えた。
末尾にある「読書ガイド」によると、『罪と罰』の原書は全6巻で構成されており、亀山氏の新訳では、その第1巻と2巻がこの『罪と罰1』に収録され、以降第3、4巻が収録された『罪と罰2』、第5、6巻が収録された『罪と罰3』と順次されていくらしい。だが現時点では、『罪と罰2』『同3』は未刊のようだ。

この『罪と罰』は、ぼくにとって最も思い出の深い小説である。初めて読んだのは大学1年の時、中村白葉訳〈岩波文庫)でだった。ぼくのドストエフスキー初体験だった。暇なのにまかせて、むさぼるように読み終えた。
あの時の衝撃と感動は忘れられない。主人公のラスコリニコフと自分を重ね合わせた。読み終えて青臭いことをいろいろと考えた。間違いなく、自分のそれまでの人生の最高の小説だと思った。ぼくの世の中とか人間に対する考え方を一変させる出来事だった。

それ以来、ドストエフスキーにのめりこんだ。『貧しき人々』『地下室の手記』『カラマーゾフの兄弟』『悪霊』と次々に読んでいった。『罪と罰』自体も、工藤精一郎訳で読み返した。当時、周囲の友人たちは大学の講義に出たり、合コンに行ったりしていた。だがぼくは、ドストエフスキーでそれどころではなかった。当然のように、女性とはあまり縁のない学生時代になってしまった。

ところで日本では、数年前、亀山郁夫氏の新訳の出た『カラマーゾフの兄弟』が累計100万部を売り上げ、社会現象にまでなったそうだ。ぼくも亀山訳の『カラマーゾフ』を読みたい読みたいと思いながら、今まで読まずにきた。
そこへ昨秋、書店の店頭で、ぼくにとって唯一無二の書『罪と罰』の亀山訳が出たのを見つけ、つい購入してしまった。

この3連休に読んでみて、あまりの平易で明快な訳に驚かされた。東野圭吾の小説並みとは言わないまでも、それに近いくらいの読みやすさだ。その反面、重厚さと威厳とか、何かが犠牲になっているような気がするが…。ただしドストエフスキーの原書が重厚で威厳のある書物だったかどうかはわからない。

『罪と罰』のエピローグには、ぼくの大好きなフレーズがある(以下は、いずれも工藤精一郎訳)。

「まだ明るいあたたかい日だった。早朝6時頃、彼は河岸の作業場に出かけた。そこの小舎には雪花石膏を焼くかまどがあって、それを焼くのが彼らの作業だった。いっしょに出かけたのは全部で3人だった。囚人の一人は看守を連れて、要塞に何かの道具をとりに行った。もう一人は薪を用意して、かまどの中に並べはじめた。ラスコーリニコフは小舎から河岸へ出て、小舎のそばに積んである丸太に腰を下ろし、荒涼とした大河の流れをながめはじめた。高い岸からは周囲の広々とした眺望がひらけていた。」

「二人は何か言おうと思ったが、何も言えなかった。涙が目にいっぱいたまっていた。二人とも蒼ざめて、痩せていた。だがそのやつれた蒼白い顔にはもう新生活への更生、訪れようとする完全な復活の曙光が輝いていた。愛が二人をよみがえらせた。」

そしてラスト「しかしそこにはもう新しいものがたりがはじまっている。一人の人間がしだいに更生していくものがたり、その人間がしだいに生れ変り、一つの世界から他の世界へしだいに移って行き、これまでまったく知らなかった新しい現実を知るものがたりである。これは新しい作品のテーマになり得るものであろうが、――このものがたりはこれで終った。」

こうしたフレーズは、亀山さんの新訳ではどのようになるのだろうか。
たいへん楽しみなことだ。

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