ゲルギエフのショスタコーヴィチ「交響曲第5番」

今日1月17日は冬晴れの1日でした。
今日はショスタコーヴィチの交響曲第5番を聴きました。演奏は、ワレリー・ゲルギエフ指揮マリインスキー歌劇場管弦楽団、2002年6月30日のライブ録音です。

この曲は、従来「革命」のニック・ネームが付せられ、社会主義革命の勝利を賛美すると言われた作品です。そしてショスタコーヴィチ自身の証言(と言われるもの)により、そのことが否定されたという曰くつきの作品です。
そのせいか最近は「革命」のニック・ネームが取り去られているケースが多いように思います。本ゲルギエフ盤にも、「革命」のニック・ネームはどこにも記載がありません。

ぼくはずっとこの作品が苦手で来ました。作品の物々しさ、大げささが自分の趣味と合いませんし、音楽というものは作曲家が美を表現したり内心を吐露するものであり、外部に向けて政治的メッセージを発するための手段とするのはいかがなものか、と考えたりしていたのです。

さて第1楽章は、なんと深刻で物々しいのでしょうか。作曲されたのは1937年ですから、第2次世界大戦が勃発する2年前だということになります。ヨーロッパではナチズムの影響が非常に濃くなっていた時代です。まもなく訪れるか未曾有の大戦争と、世界の終末を予感しているかのような楽章です。
第2楽章はスケルツォに相当する楽章です。明るく軽妙な楽章と見えて、実際はショスタコーヴィチらしいシニシズムに溢れた楽章なのでしょう。
第3楽章は緩徐楽章ですが、苦悩と悲哀に満ち溢れ、それが聴き手に向かって押し寄せてくるような楽章です。
第4楽章はド派手は楽章です。従来、社会主義革命の歓喜を表わしたとされ、ショスタコーヴィチ自身によりそのことが否定されたという楽章です。そういう先入見を持って聴いていると、実は、当時のスターリン独裁体制の下で自由と民主主義を抑圧された苦悩が表現されており、スターリン体制もまたナチズムと一歩隔てただけのものであることを告発しているかのようです。
なお本曲のように第3楽章を緩徐楽章にしてしまうと、それとのバランスを取るため第4楽章が長大になるケースが多く、ベートーヴェンの第9やブルックナーの第8はその好例ですが、このショスタコーヴィチの第5の第4楽章はあまり長くありません。第4楽章の内容をド派手にすることにより、バランスを取ろうとしているのでしょう。それはそれで成功を収めているように思います。

聴き終えて、この交響曲第5番は従来ほど聴きづらくありませんでした。これは自分がショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲が好きでよく聴いているせいで、彼の作品世界に慣れ親しんできたせいではないかと思います。
かといって好きにもなれませんでした。作品の持つ物々しさ・生々しさが自分の趣味と合わないのだと思います。

ゲルギエフの演奏ですが、ゲルギエフというとダイナミックで野生的な演奏をする人というイメージがあります。が、この演奏はどこかおとなしく、焦点が定まっていないような印象を受けました。ぼくはこの第5番の演奏を多数聴いたわけではないので、はっきりとは言えませんが…。
マリインスキー歌劇場管弦楽団のアンサンブルの精緻さ、個々のパートの実力は大したもので、ゲルギエフが超一流のオーケストラ・ビルダーであることを証明するものです。

"ゲルギエフのショスタコーヴィチ「交響曲第5番」" へのコメントを書く

お名前
メールアドレス
ホームページアドレス
コメント