森絵都『ラン』(理論社)

森絵都『ラン』(理論社)という本を読み終えた。
本書は単行本である。ぼくはいつも、小説は文庫化されるのを待ってから読むようにしているので、本書は例外である。どうしてかというと、本書はぼくが買ったのではなく、息子(現在、中2)が買ったものなのだ。
息子の通う中学校では中1の時、本書『ラン』を題材にした授業が行われたらしく、それで息子も本書を読むことになった。ぼくは今回、息子から借りて本書を読んだのである。

本書『ラン』はその題名どおりランナーの物語である。
主人公の夏目環は22歳の女性。13歳の時両親と弟を事故で亡くし、2年前に叔母が亡くなり1人きりの生活を送っている。
環はあるきっかけで、近くの自転車店の紺野さんから特別の自転車「モナミ1号」を贈られた。ある日モナミ1号に乗って走っていると、現世界と冥界の間のレーンを越えて冥界に到達してしまう。そこで亡くなった両親と弟、叔母と再会するという不思議な経験をする。
ところがモナミ1号は既に亡くなった紺野さんの息子の所有物だった。モナミ1号を紺野さんの息子に返さないと、紺野さんの息子の魂は安らぎを得ることはできない。しかしモナミ1号を紺野さんの息子に返してしまうと、レーン越えができなくなる。こうして、自力でレーン越えをするために、環は40キロを走ることができるようになろうと、ジョギングを開始する。
ジョギングをしている環を見て、「ドコロさん」という謎の人物が声を掛けてきた。ドコロさんは、素人のマラソン・ランナー集団「イージー・ランナーズ」のリーダーで、現在「イージー・ランナーズ」のメンバーを8人集めようとしているという。環はイージー・ランナーズに加わることになり、やがて8人のメンバーが揃う。そして8人は沖縄の久米島で行われるマラソン大会をめざして、猛練習を開始することになる。ただし8人はそれぞれにワケアリで、時にはトラブルも引き起す、というストーリーだ。

この小説では、「ラン」=走るということが、走り続けるということが、どのようなことなのか、どんな経験なのか、人は走ることでどう変わるのか、みずみずしい文体で描かれている。

「そうしてやっと15分を走り通せるようになったころから、かな。ほんの少しだけ、呼吸や足が楽になってきた。それまでは走っているあいだじゅう、つらい、苦しい、もうダメ、つらい、苦しい、もうダメって、それだけしか考えられなかったのが、少しずつほかのことにも目がいくようになったっていうか。(中略)
 まわりの風景にも意識が向かうようになると、毎日、なにかしらの発見があった。
 この木って、桜だったんだな。
 あんまりきれいな川じゃないのに魚はいるんだな。
 この遊歩道でジョガーが多いんだな。
 でもだれひとり首にタオルを巻いていないな。(以下、略)」(131~132頁)

「以前はいたのに、今はいない人たち。
 以前はあったのに、今はないものたち。
 失われた時間を空想のなかで復活させるのは、現実に立ち返ったときのダメージが大きすぎるから普段は避けているけれど、走っているときにはなぜかそれができる。さびしさも虚しさも、一秒ごとに地面に落下する衝撃と共に体で受け止められる。
 つまり、体力がついたってことなのかな。
 最初の一歩を踏みだした7ヶ月前なんて、空想どころか『苦しい』以外の何ものも考えられなかった。いつのまにか走りながら思いに耽ったり、夕食の献立を立てたりもできるようになっていた。」(336頁)

ぼくは運動不足の中年だから、500メートルを完走できるかどうかも怪しい。「走る」という経験などないに等しい。

しかし、「走る」ということは、すばらしいことなのだろう。

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